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2020年7月4日(土)フィールドワーク「旧平櫛田中」邸


 7月のア−ト・ラボでは、台東区上野桜木にある「旧平櫛田中邸」を見学しました。
 平櫛田中は明治・大正・昭和にわたり、木彫を中心に近代彫刻を発展させた彫刻家です。田中は明治5年、岡山県井原市に生まれました。22歳の時に、大阪で活躍していた人形師の中谷省古の下で木彫技術の基礎を学び、26歳で上京。高村光雲の門を叩きました。

この頃、明治30年代の彫刻界は対象を正確に再現することが重視されており、田中も、宮内省買い上げとなった代表作《唱歌君が代》など、写生的な態度で写した作品を発表しています。以降も岡倉天心や日本美術院の同志の支えを得て、精力的に多数の作品を発表。65歳で制作を開始した田中畢生の代表作に《鏡獅子》があります。

歌舞伎の6代目尾上菊五郎と作り上げ、その姿を留めた木彫彩色の高さ2メ−トルの大作です。先の大戦をはさみ、制作には22年の歳月を要しました。作品は50年以上経った現在も国立劇場のロビーで、今なお眼光鋭く観客を迎え続けています。

「旧平櫛田中邸」は田中のアトリエ付き住宅です。通常一般公開はしていませんが、今回、一般社団法人谷中のおかって」の金田さんに、建物内を案内していただくことができました。現在、建物は故郷の井原市に寄贈されており、平成14年から市の了解のもと、東京芸大とNPOたいとう歴史都市研究会が協力し建物の修繕維持管理を行い、また新たな芸術文化の育成の場としての活動を行っています。

 それでは早速、田中が作り暮らし慈しんだ、大正の面影残す「平櫛田中邸」を訪ねてみましょう。
1建物外観 〜質実剛健な佇まい〜  

建物の外観は100年の時を越えた木造建築ならではの、しっとりと落ち着いた佇まいを感じさせます。
田中が退居した後はお弟子さんが住み、しばらくは空き家になっていましたが、芸大の学生や文化財保存の関係者等、様々な人の手により修繕が繰り返され今の状態に保たれています。

「質実剛健というか装飾はあまりありませんが、ところどころ、例えば雨戸の桟に彫りがされています。その傷んだ場所を芸大の彫刻科の学生が作り補充しています。(金田さん)」軒裏にも一見すると鉄筋に見える彫りがされた木材が渡されおり、質実剛健な風情ながら、ちょっとした場所に遊び心を感じました。

<田中邸・外観 >

   
<雨戸の桟>     <軒裏>

<アトリエと書棚>

   
<天窓と柱 >
2 アトリエ 〜北向きの天窓〜  

アトリエ部分は大正8年に、横山大観、下村観山、木村武山ら、日本美術院の画家たちの支援により建てられています。「当時、日本画というジャンルがやっと確立し少し売れるようになったようです。
そこで亡くなった岡倉天心の意を汲み、彫刻も頑張ってほしいとの思いで建てられたそうです。(金田さん)」その頃、田中が《転生》という2メ−トル近い彫刻を作るのに、寄宿していた長安寺の仕事場では手狭だろうと、この17.5坪のアトリエが作られました。当初は約12坪を塑造の仕事場に、約5坪を木彫の仕事場としたようです。  

アトリエは北向きに大きく天窓が開かれており、南西の壁はぐるりと書棚に囲まれています。 天窓が北向きなのは日中安定した自然光を得るためで、近代アトリエ建築の先駆けとなりました。窓と柱の位置がずれているのは、昭和に入る頃、建物外周にコンクリ-トブロックを打つ改修を行った際、窓と壁の位置が少しずれたためです。当日は梅雨の最中、曇り空でしたが、柔らかい日差しが網ガラスから燦燦と降り注いていたのが印象的でした。現在、書棚に本は納められていませんが、当時ここには入りきらないほど沢山の蔵書があったそうです。向学心が旺盛だったのでしょう。田中は子供の頃から向学心が大変強かったようで、小学校を卒業した14歳の頃、英語を勉強するため、毎日尾道まで約8キロの道を往復したエピソードが残されています。 
3 住まい 〜木とガラスの温もり〜    
大正11年にはアトリエの傍らに家屋も建て、50歳から小平に転居する98歳まで、田中は実に50年近い日々をここで過ごしました。36歳の時に結婚した妻花代との間に3人の子供に恵まれましたが、大正15年に長女、昭和2年に長男を相次いで結核で亡くしています。      

住宅部分の間取りは、1階の茶の間と2階の10畳の座敷が中心となっています。どの部屋も欄間に見られるような装飾はなく、いたってシンプルな造作です。しかし、窓や棚のガラス、障子の模様といったところに当時の人の手が感じられ、とても良い雰囲気を醸し出していました。

例えば、2階の座敷の障子には木版画で梅の木が彩られ、廊下越しの光と相まって座敷にぬくもりを与えています。当時は障子全面に模様があったとのこと。それは美しかったことでしょう。 
 田中はこの2階の座敷を好み、ここで制作も行っていました。北側の窓の外には谷中霊園が広がっています。
    
<玄関前で(大正12)>  <2階座敷>

      
<廊下からの眺め>     <障子> 

<洗い場>
 

<茶の間>

<戸棚>
1階には茶の間やお勝手があります。ここにも明り取りの天窓があり、明るい陽射しが降り注いでいます。また、戸棚のすりガラスも現代にないもので、木枠と相まって温かな印象を受けました。

しかし、大正14年に3人の子供が相次いで結核になり、翌年には療養のため平塚に家を借りたとの記録があることから、この茶の間での団らんはわずか3年ほどであったと思われます。
4 公開活動 〜新たな場の活用〜  
田中邸・アトリエは保全活動にとどまらず、近年、新しい芸術活動の発信の場としても活用されています。

DenchuLab.(デンチュウラボ)は田中邸の空間や地域環境を活かした作品制作、展示、活動企画、特定のジャンルにとらわれない表現者の意欲的な活動を募集内容として、毎年実施されています。

「天窓の網ガラスを、フロッタージュの手法で凸凹を画用紙に写し取り、それをプリントした生地を使用した作品も発表されました。(金田さん)」見学後、この活動の様子を改めてインターネットで拝見しましたが、衣装と建築の共通点類似点を見出し、かつ活かした作品に大変魅了されました。

このような活動の場が用意されることについては、田中のために大観らがアトリエを用意したのと同じく、若手の芸術家にとって大きな励みになると感じました。

 (DenchuLab.'17「田中邸を纏う」http://kaoritamura.com/archives/546)
5 おわりに  
田中邸を見学後、やはり実際の作品に触れたくなり、後日、小平市の平櫛田中彫刻美術館を訪ねました。
そこで改めて、田中の勤勉さとしなやかな強さに感じ入りました。いずれの時代の作品も直に向き合うと、まさに一刀三礼の精神で作られたことがわかります。
まず、美術館の入口にある、ブロンズ製の《転生》の口から放たれる人間の姿を見て慄きます。驚いたのは《森の行者》からは深い森の静寂を、《尋牛》からは老人の足音と牛のいななきをといったように、全ての作品が田中個人を離れ、そこにあるといった風に感じるのです。それは、都度田中が対峙するものに敬意を持ち、より良い表現の仕方を個々に探求したからではないでしょうか。  

今回、気骨ある彫刻家、平櫛田中との出会いは、人生半世紀を越えた私にとって喝を入れてもらう貴重な経験となりました。今現在ややへたり気味なのですが、107歳の長寿を全うした田中が生きておられたら、間違いなくこう言われるかと。
「六十、七十、鼻たれ小僧 女ざかりは百から百から」                                                                                                               (早川美鈴)      参考:平櫛田中作品集(小平市平櫛田中彫刻美術館)   

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