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2018年3月3日(土) 文京地区の明治の美術をめぐる(森鴎外記念館、横山大観記念館)


3月は今年初めてのフィールドワークです。
今回は千駄木にある森鷗外記念館と池之端の横山大観記念館を見学しました。鷗外と大観はともに明治期の美術に多大な影響を与えています。その二人の航跡を探ってみます。

最初は千駄木の森鴎外記念館。鷗外は生前この地に住み、自宅を『観潮楼』と名付け、30歳から亡くなるまでの30年間ここで暮らしました。
その跡地に建てられた記念館は陶器二三男氏の設計によるコンクリート打ち放しの現代的な建築で、2014年度のBSC賞(社団法人日本建設業連合会による優秀建築作品に贈られる)を受賞しています。

明るい日差しが天窓から地下まで届き、なかなか良い感じです。ちょうど『鴎外 ミーツ アーティスト』という展示が行われていて、鷗外と芸術家たちの交流の様子を知ることが出来ました。
鷗外は21歳の時医学を学ぶためドイツに留学、帰国後は勉学の成果による最新の知識を日本にもたらしています。加えて留学時代に原田直次郎と出会ったことで文学のほかにも美術、特に洋画に強く関心を持つことになりました。

展示されている手紙や写真などからは『観潮楼』において様々な交流があったことが分かります。

二葉亭四迷や坪内逍遥、樋口一葉等をはじめ、美術界からは原田直次郎の弟子である大下藤次郎(水彩)、吉田博(洋画、版画)、中村不折(洋画、書)、高村光太郎(詩人、彫刻)など多彩なメンバーとのやり取りが見えてきました。


明治初期の西洋画の推奨から一転しての排斥運動を目の当たりにして、その短期間の性急な交代に疑問を抱いた鷗外は原田直次郎を擁護、唯一の個展を開いています。

また、鷗外は明治24年には東京美術学校で美術解剖学、29年には西洋美術史を教え、文展審査員を務め、大正7年には帝室博物館(現東京国立博物館)館長、及び帝国美術院(現日本芸術院)の初代院長に就任しています。

一通り各自で見学した後、記念館の三田さんに概要を解説していただきました。
続いて池之端にある横山大観記念館を見学しました。
不忍池のほとり、裏手には旧岩崎邸の在るこの建物は明治41年に大観自身が構想した京風数寄屋造りの建物で、東京大空襲により焼失後、昭和29年にほぼ同じ形で再建されたものです。

大観の好みが反映した瀟洒な作りの建物と庭園は、文化庁による史跡及び名称に指定されています。再建されたとはいえすでに65年以上が立っている建物であるため、相当な趣もありました。大観の掛け軸等の作品がガラスケース無しで飾られています。


明治26年、東京美術学校を卒業した大観は岡倉天心の影響を多分に受け、東京美術学校の助教授となり、美術学校騒動において天心が職を辞した時も行動を共にしました。その後、天心とともに下山観山、菱田春草らと日本美術院において日本画の革新に努めました。

そもそも日本画というくくりは、開国により入ってきた洋画に対抗する意味でフェノロサが発した言葉から生まれたものです。その生い立ちから、洋画より優れて革新的でなくてはならないと定義づけられていました。
伝統的な線を用いない朦朧体という描き方も改革の一部でした。大観がこの建物の中でさまざまな作品制作に没頭し、生活をし、生涯を終えたのかと思うだけでも、なんだかワクワク・ゾクゾクしてくるものがありました。

窓からの景色は今のものとは全く違うものだったのだと思いますが、それでもお庭や部屋の設えの雰囲気から、明治のこの地の雰囲気が匂ってくる気がいたしました。
さて来月は西洋画のみならず美術分野に様々な功績を残した黒田清輝をはじめ4月以降のフィールドワーク情報について調べていきます。

先生から何かを学んだり、イベントに参加したりという形では得られない「自分なりの学びと楽しみ」が見つけられる月1研究会ART LABO。
ぜひ、一度来てみてください♪ きっとそこには、楽しい仲間たちとの素敵な時間が待っていますよ♪
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