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2013年6月1日(土) わたしたちのイタリア・ルネッサンス 勉強会

61日にART LABO でルネサンス美術についての報告会をしました。

 

Tさんは前回の皆からのリクエストにお答えいただき、ルネサンス建築についてご報告くださいました。全体を初期・盛期・後期に分け、初期はブルネレスキの建築とアルベルティの『建築論』について、盛期はユリウス2世に任じられサン・ピエトロ大聖堂の建築主任となった古代建築を蘇らせたブラマンテ、後期はジュリオ・ロマーノやミケランジェロのマニエリスムの、主題にひねりを加えた玄人向け建築・独創的な空間創造をお話し下さいました。後期ルネサンスについては、北イタリアにも言及してくださり、イギリスに影響を与えたパラーディオ主義にも触れていただきました。

 

Hさんはボッティチェリについての謎を教えてくださいました。≪春≫は「愛の賛歌」との定説がありますが、「死」のイメージもあるとのこと。西風のゼフュロスは全身真っ青ですし、マーキュリーは死者の魂を黄泉の国へと導く案内役とのこと。そして、中央のヴィーナスは誰なのか?誰のために描かれたのか?ジュリアーノ・デ・メディチの愛人でフィレンツェ(いち)の美女と言われた「シモネッタ・ヴェスプッチ」、ジュリアーノの兄、マニフィコ・ロレンツォの妻「クラリーチェ・オルシーニ」、或いは、シモネッタの命日に刺殺されたジュリアーノの子ジューリオを生んだ「フィオレッタ・ゴリーニ」・・・?

Sさんは前回に引き続き、ハインリヒ・ヴェルフリン著『古典美術―イタリア・ルネサンス序説―』のラファエロの章を解説下さいました。リッピとペルジーノを比較、そしてペルジーノとラファエロを比較することで、ルネサンスの完成とマニエリスムへの移行を見ていきました。またラファエロは静止画が得意なので≪聖体の論議≫は動きのある人物画が必要なかった点に着目(ラファエロにとってはラッキー?)、≪アテネの聖堂≫では、神聖なものが無いため構図が難しい主題。ラファエロは階段のある建物の中に人物を配したことで解決。そして≪ヘリオドルスの神殿からの追放≫では、ついに歴史画にトライ、動的表現を成功させました。≪ボルセーナのミサ≫ではざわめく人たちの中央に冷静な人を置くという、構図の上手さが際立っています。

 

Aさんは、政治学的視点からルネサンスを見ました。ミケランジェロの波乱万丈の人生は、フィレンツェ激動の時代に誕生したせいではないかと考えています。13歳の時ドメニコ・ギルランダイオの徒弟になり、その翌年にはロレンツォ・デ・メディチに近い環境で暮らし、学ぶ事ができるようになります。けれども17歳の時、ロレンツォが亡くなり、後継者ピエロ・デ・メディチは芸術に興味が無く政治にも疎かったのです。ピエロの悪政下フィレンツェには低俗な説教師が多く登場、とくにサヴォナローラは強い影響を与えました。そんな不安定な社会の中、19歳のときにフランスのシャルル8世のイタリア侵攻のため、ヴェネツィアに逃れ20歳の時フィレンツェに戻ります。これが最初の放浪でした。古代彫刻と間違えられた名作≪眠れるキューピッド≫をきっかけに21歳の時にローマへ招かれます。26歳のとき英雄としてフィレンツェに戻りますが、新教皇ユリウス2世に仕えるため再びローマへ、彼の墓碑の制作を依頼されますが、教皇はブラマンテに依頼したサン・ピエトロ大聖堂の全面改築への興味が大きくなり、墓碑への興味を失っていました。ミケランジェロはこのことに怒り、フィレンツェに帰ってしまいます。なんとかフィレンツェのとりなしもあって、ローマへ戻りますが、ここでシスティナ礼拝堂の天井画を依頼されるのです。墓碑は40体以上の彫刻から成る予定だったので、この時のアイデアを天上画に生かしたとも言われていますが、彫刻家であるミケランジェロに絵画を依頼したのは、ブラマンテのライバル心からくる意地悪だとミケランジェロは思ったそうです。メディチ家の衰退、サヴォナローラの登場と混乱、ユリウス2世を巡る抗争・・ローマとフィレンツェを行ったり来たり、本当に波乱万丈でした。

 Sさんは、ルネサンスはどうやって始まり、終わったのかというテーマを『Pen』を参考に調べました。十字軍の遠征により富を得たヴェネツィアは、商人層の政治力が強まります。君主と教会に加え、第3のパトロンとしての「ギルド」を基盤とした社会こそルネサンス誕生のきっかけと考えています。有力「ギルド」から選ばれた代表者たちによって、話し合いで都市国家を運営する自治都市国家は、君主や教会に支配された中世とは異なる政治体制で、それは古代ギリシャ・ローマの共和政に通じるものでした。イスラム圏などで保存されていた古代ギリシャ・ローマの思想は、十字軍によってヨーロッパに再び伝えられ、この考えを「再生:ルネサンス」したと考えられます。

 

私は、ルネサンス期のテキスタイルについて、具体的に織物の画像をお見せしながら報告しました。1.ルネサンス前6世紀から13世紀半ばの「シチリア」のテキスタイルから始めました。この時代のこの地では、ビザンチン、ペルシャ、インドから優れた職人が集まりました。この地からヨーロッパに絹織物が広がります。2.フィレンツェ織物の基礎となる「ルッカ」の13世紀から14世紀のテキスタイルは、ローマ時代から毛織物の産地でしたが、シチリアからの絹織物職人の移住で絹の産地になりました。3.15世紀から16世紀中頃の「フィレンツェ」の織物は、ルッカを侵略したことで毛織物だけでなく絹織物も盛んになりました。このころの代表的なモチーフは「ざくろ」です。4.その後「ジェノバ」や「ヴェネツィア」でも絹織物が盛んになります。

 

次回は、ルネサンスの彫刻についてレクチャーを受けます。

これを機会に、ART LABOに参加してみませんか?

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